
| Yes暦 1968-1979 |
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− 〜1968 / イエスの誕生 − はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵の表にあり、神の霊が水の表を覆っていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光をイエスと名付け、闇をその他諸々のアーチストと名付けられた。怪しい頁のオープニングは、やはりこれくらい厳かであるべきだろう(笑)。 〜
1944年10月25日、ランカシャーのアクリントンでジョン・アンダーソンが生まれる。1945年1月11日、レイセスターでトニー・ケイが生まれる。1947年4月8日、ノースロンドンでスティーヴ・ハウが生まれる。1947年7月7日、ロンドンのバーネットでピーター・バンクスが生まれる。1948年3月4日、ロンドン郊外のキングスバリーでクリス・スクワイアが生まれる。1948年6月24日、スイスのヴィラ・サン・クロワにパトリック・モラーツが生まれる。1949年5月18日、ミッドレセックスでリック・ウエイクマンが生まれる。1949年6月14日、ニューキャッスルのダーハムでアラン・ホワイトが生まれる。1949年7月15日、ハートフォードシャーでトレヴァー・ホーンが生まれる。1950年5月17日、ケントのセヴンオークスでビル・ブラッフォードが生まれる。1952年8月25日、マンチェスターでジェフ・ダウンズが生まれる。1955年1月13日、南アフリカのヨハネスバーグでトレヴァー・ラビンが生まれる。1965年7月14日、モスクワでイゴール・クロシェフが生まれる。1965年3月14日、ビリー・シャーウッドが生まれる。〜
クリス・スクワイアとピーター・バンクスは、1966年にSynを結成、1967年、これを解散してMabel Greer's Toyshopを結成した。ジョン・アンダーソンは、1963年から1967年まで、The Warriors、1968年、Hans Christian Andersonを経てMabel Greer's Toy Shopに加入した。
Mabel Greer's Toy Shopのメンバーは、Jon Anderson(vo),Pete Banks(g),Chris Squire(b),Clive Bailey(g),John Cymbal(dr)である。ジョンとクリスの出会いは、マーキー・クラブを経営していたジャック・バリーを介したものであったようだ。当時、彼らは、「トップ10に入らなくてもいいからポップな音楽を演ろう。そして、他のバンドと違う演奏をしよう。」ということを話していたということだ。トイ・ショップ結成後、間もなく、クライブ・ベイリーとジョン・シンバルは首になった模様で、代わりに、1868年6月にメロディー・メーカー誌上に掲載したメンバー募集の記事を見たビル・ブラッフォード(dr)、そして、マーキー・クラブの常連であったトニー・ケイ(org)が加わる。トニー・ケイは、1964年にThe Federals、1967年にはJimmy Winston and His Reflectionsに在籍していた。そして、この5人編成で、6月、第1期イエスが誕生した(下右のYesyearsブックレットの写真を参照)。記念すべきライヴ・デビューは、8月3日、エセックスのイースト・マージー・ユース・キャンプで行われた。そして、翌5日以降、マーキー等に出演を続けることとなる。 | |||||||
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− 1969〜1970 / アルバム・デビュー −
アルバムはいずれも、アメリカ盤とイギリス盤でジャケットが異なる。日本では当初アメリカ盤のジャケットで発売され、その後イギリス盤が発売された。この点は、続いて、1970年1月に発売されたセカンド・アルバム”Time and a word(時間と言葉)”についても同じだ。 (詳しくは、国内初盤はUK盤で、"Fragile","Close To The Edge"を経て日本でもブレークした後,再発されたときのジャケットがUK盤のものとのこと。1970年頃のMusic Life誌のレコード評においてUS盤のジャケットで紹介されているのを見られた記憶があるとのこと…MIBさん情報Thanks!!) 当時のサウンドの芯はビートルズのようにポップなものであるが、ビル・ブラッフォードのジャズ・スタイルのドラムス、リッケンバッカーで広域寄りにゴリゴリの音を出すクリス・スクワイアのベース、そして、トニー・ケイのハモンドがほんの少しクラシカルでスペイシーにアルバム全体を包み込む不思議な世界である。 ファースト・アルバムで殊興味深いのは、メイベル・グリアーズ・トイ・ショップ時代に作曲されたビヨンド・アンド・ビフォーとスウィートネスが収録されているところである。当時は機材が劣悪だったせいか録音状態は今ひとつ。ギミック一切なしの生音そのものである。「洗練」の文字の欠片も見当たらない。原石そのものといった感じ。しかし、「異質な存在」であることは手にとるように解る不思議なバランス感覚のアンサンブルであった。 1970年3月21日、イエスは、ロンドンのクイーン・エリザベス・ホールで初のソロ・ライヴを行った。 | |||||||
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− スティーヴ・ハウの加入 −
5月2日、メロディー・メーカー誌にピーター・バンクスの脱退を公表、4月18日に行われたLuton College of Technology Student's Unionの公演がバンクス最後のステージだった。脱退の原因は、ピーターがツアーに疲れたためとも、ピーターが根暗で他のメンバーとの折り合いが悪くなったためとも様々に説明されている。そして、ピーターの代わりに、シンディ・キャッツ、ジ・イン・クラウド、トゥモロウ、ボーダストを経てスティーヴ・ハウが加入した。クリス・スクワイアの誘いがきっかけだということだ。しかし、このギタリスト交代までの間に、既に2作目の録音は終わっており、7月25日、セカンドの時間と言葉が発表された。したがって、2ndアルバムまでは、レコーディング・メンバーで見れば第1期イエスである。セカンド・アルバムの特徴は、ファーストの音に加えてオーケストラやブラスを導入している点だ。とは言っても、No opportunity necessary,no experience neededのイントロに登場する大いなる西部のテーマは、ちょっと吃驚するくらい極端な用い方であるが、他の楽曲では、装飾的なところが大きくかなり自然に楽曲に溶け込んでいるようである。さて、上記のとおり、メンバーの入れ替わりとアルバムの発売とが前後した関係で、ちょっと複雑ながら、第2期イエスは、1970年4月に編成されている(右のYesyearsブックレットの写真を参照)。メンバーは、Jon Anderson(vo),Chris Squire(b),Bill Brufford(dr),Tonny Key(org),Steve Howe(g)である。・・・しかし、クリス・スクワイアのステージ衣装の趣味の悪さといったら、一体(^^ゞこの頃までは、彼以外、割とスマートな衣装なんだけどねぇ。当時は、足にボンボリがついたズボンがお好みだったみたいですね〜(笑) 1970年10月、第2期イエスによる新作のレコーディングが始まった。この後、10月31日、イエスは、クイーン・エリザベス・ホールで2度目のソロ・ライヴを行う。この日のセットリストには、アストラル・トラヴェラーなどに加え、既に、クラップ、ユア・イズ・ノー・ディスグレイス、オール・グッド・ピープルなどが入っていた。 | |||||||
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− 1971 −
1月8日、オランダでの公演を皮切りに、アイアン・バタフライにダダと共に同行。The Age of Atlanticと題するプロモーション・ツアーであった。 1月29日、3作目に当たる”The Yes Album”を発表する。(邦題は「サード・アルバム」)
1971 The Yes Album
直後にトニー・ケイが脱退を表明。トニー・ケイは、バンドの中でオルガンの可能性を追求したかったが、イエスの中ではギターのバックに埋もれてしまうということが理由であったようだ。7月31日のクリスタル・パレス・ボウルの公演がトニー・ケイを含む第3期イエスの最終公演だった。 | |||||||
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− リック・ウエイクマンの加入)−
1971年8月、スティーヴ・ハウとクリス・スクワイアからの誘いを受けて、リック・ウエイクマンが加入する。リック・ウエイクマンはロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックを卒業の後セッションの仕事をはじめ、ウォーフォースを経て1970年にストローブスに参加、同年12月9日には、ハル大学でイエスと同じステージに立っている。当時から、ウエイクマンは優れたプレイヤーとして世間の注目を集めていたが、イエスのメンバーも当時から目をつけていたということのようである。ウエイクマンは誘いを受け次作フラジャイルの構想、今後のショーの構想などに賛同しイエス加入を決める。・・・第3期イエスの誕生である。ラインナップは、Jon Anderson(vo),Chris Squire(b),Bill Brufford(dr),Steve Howe(g),Rick Wakeman(key)である(右Fragileブックレットの写真を参照)。 そして、1971年8月、新作のレコーディングを開始する。スタジオは、前作と同じロンドンのアドヴィジョン・スタジオ。新作のレコーディングには、マネージャーのブライアン・レーンが5000ポンドで調達した新しい機材が使用されている。購入の時期は3rd制作前らしいが、3rd制作にはその機材が使われなかったらしい。この辺りの経緯・理由等は不明であるが、ひょっとしたら、契約はしたものの3rdのレコーディングには納入が間に合わなかったということだろうか。いずれにしろ、新機材の威力は相当のもののようで、Fragileのアナログ盤の内ジャケにBank loan arranged by Brian Laneという記述があるのは、彼の功績の大きさを指し示しているようだ。かくして、1971年11月12日、4作目「Fragile」がイギリス発売された。
3:天国への架け橋,4:南の空,5:無益の5%, 6:遥かなる思い出,9:燃える朝焼け 実は、丁度この頃、アメリカでイエスがブレイクし、先の3rdアルバムが徐々に売れ始めていたのだ。そこで、アメリカ・アトランチックは、第4作の発売を翌1972年1月まで待つように申し入れしてきた。ところが、イギリス・アトランティックは、当初の発売予定を10月をアメリカにあわせて11月に遅らせた経緯があり、申し入れを受け入れずに11月発売に踏み切ってしまったのだ。このおかげで、アメリカでは、相当量のブートレッグが出回ったということだ。・・・世界同時発売の秘密って、こんなところにあったんだね・・・って改めて思ってしまった。最近じゃ、国境を越えた入手はごく簡単だし、なおさら一斉発売が必要なんですね〜、特に大物メジャー・アーチストはね(^^) − イエス・サウンドの完成! − さて、fragile(こわれもの)の音の方のお話し。先に、3rdアルバムがイエスの方向性を決定付けたと書いたが、これは、楽曲の構築性のうち、まぁ言ってみればベースラインが完成したと位置付けられる。3rdにおいては、スティーヴ・ハウの加入によって、装飾部分も一部完成に近づいてはいたが、まだまだ、普通のバンドに毛が生えた程度だと考えていい(とは言っても「毛」の質と量は並大抵のものじゃないけどね(笑))。ところが、リック・ウエイクマンの加入によって、音の相乗効果が生まれ、イエスは更に新たな次元へ踏み出したと言ってよいだろう。スティーヴ・ハウのカントリー、ジャズ、クラシックを踏破した独創的感覚にリック・ウエイクマンの古典感覚が溶け合い、しかも、クリス・スクワイアの癖のあるベースラインとビル・ブラッフォードの良く歌うドラムスとのバトルも織り交ぜながら進行する独特の楽曲、そこにクリスタルの雫のように繊細なジョン・アンダーソンのヴォーカルが映し出され超常世界を紡ぎ出すシンフォニック・ロックが、ここにきて完成されたのである。スピーディーでハイテンション、煌めきがあり、繊細且つ重厚なサウンドの完成である。 このアルバムは、5人のメンバーのソロ作品を含む9曲から成っている。この点については、アナログ盤の内ジャケに解説が載っているのでその引用も含みで紹介すると次のとおり。Cans and Brahmsは、ブラームスの交響曲第4番からの抜粋であり、ストリングスのパートをエレクトリック・ピアノ、木管のパートをピアノ、金管のパートをオルガン、リード楽器のパートをエレクトリック・ハープシコード、バスーンのパートをシンセサイザーに置き換えてリックウエイクマンが多重録音で完成させたもの、We have heavenは、ジョン・アンダーソンがすべてのパートを歌い多重録音したもの、5%for nothingはビル・ブラッフォードの16小節の作品、ザ・フィッシュは、クリス・スクワイアが、リフ、リズム・メロディーをベースを駆使して作り上げたもの、そして、ムード・フォー・ア・デイはスティーヴ・ハウのギター・ピースだ。そして、これら小品をアクセントにして、永遠の名曲、ラウンドアバウトと燃える朝焼け、そして南の空と遥かなる思い出が配置されている。特に、70年代ギター・キッズ御用達でありノーマルチューニング、12フレットのハーモニクスで始まるラウンドアバウト、そして、8分の6拍子16分音符のユニゾンのキメで始まる燃える朝焼けは、永遠にイエス・ショーのセットリストから消えることのないスタンダードである。ギターの話しついでに書いてしまうと、クラップは簡単に弾けなくても、ムード・フォー・ア・デイならちょっと練習すれば弾ける人は多いだろう。シンコー・ミュージックからバンド・スコア「イエス・ベスト・こわれもの+危機」というのが出ている。ラウンド・アバウトのコピーなんか、冒頭のハーモニクスによるロックンロール・パターンが記譜されていないなど凄まじい(-_-メ)内容ながら、ムード・フォー・ア・デイは細部を除きそれなりに聴こえるように記譜されているので参考になるだろう。 もう1点、このアルバムに付け加えなければならない。それは、ロジャー・ディーンのイラストがカヴァーに採用されたことだ。ロゴ・デザインはここではまだ完成途上にあるものの、以降描き出される幻想的な空間はここに誕生したのである。水彩で南の空が描かれているブックレットもいい味を出している。 色々、思いつきで書きまくったものの、兎に角、問答無用。このアルバムを聴かずしてイエスを語ってはいけない。そういう極めつけのアルバムなのだ。(^^)。 − 1972 / 第4期イエス(アラン・ホワイトの加入)− 1972年2月15日ロード・アイランドを皮切りに、イエスの第3回アメリカ・ツアーがスタートした。このツアーは3月27日にボストンのアクエリアス・シアターで終了したが、このツアーにはエンジニアのエディ・オフォードが同行し、ライヴ・レコーディングを行った。 6月ころ、ロンドンのアドヴィジョン・スタジオでClose to the edgeのレコーディングが行われた。概ね録音が終わった後の出来事のようであるが、ビル・ブラッフォードと他のメンバーとの激しい口論が行われた。音楽のことショーのこと等諸々について、ビル・ブラッフォードがキレてしまったようだ。また、この点について、イエスはそもそもビル・ブラッフォードをアラン・ホワイトに代えることを計画しており、これに憤慨したビル・ブラッフォードが狂気したものだとも伝えられている。関係者は色々と取り繕ったコメントを残しているが、この交代劇は相当の波乱に満ちたものだったようだ。
・・・そして、1972年7月22日付けのMelody Maker誌の表紙にキング・クリムゾンのメンバーとしてビル・ブラッフォードが掲載された。見出しがいかしている。YES MAN TO JOIN CRIMSONである。記事はこう始まる。"THE NEW King Crimson rehearsed quietly in London this week-with Yes's Bill Bruford on drums...."一方、アランホワイトの加入については、ビル・ブラッフォードが脱退の後、アラン・ホワイトがジョー・コッカー&クリス・ステイトン・オールスターズのヨーロッパ・ツアーの最中に加入を要請され、しかも、同ツアー終了後わずか1週間でイエスの全曲をマスターして、直ちにイエスのアメリカ・ツアーに加わったという話もある。・・・まぁ、このようにして、1972年7月、イエスは第4期に突入した。 ラインナップは、Jon Anderson(vo),Chris Squire(b),Alan White(dr),Steve Howe(g),Rick Wakeman(key)である(右Yesyearsブックレットの写真を参照)。 第4期イエスの初演は、7月30日、テキサスのダラスのステージであった。アメリカ・ツアーは8月16日のニューヨーク公演まで続いた。第4回アメリカ・ツアーである。英国に帰国後、リハーサルの後、9月2日にクリスタル・パレス・ボールで第3回ガーデン・パーティーにマハビシュヌ・オーケストラらとともに出演した。そして、このステージが次作クローズ・トゥ・ジ・エッジの初演であった。 なお、この時期までに、The Yes AlbumとFragileは、いずれもゴールド・ディスクとなり、なおもセールスを伸ばしていた。
Close to the edge「危機」
1:危機 i)着実な変革 ii)全体保持 iii)盛衰 iv)人の四季 2:同志 i)人生の絆 ii)失墜 iii)教師と牧師 iv)黙示 1972年9月8日、第5作、Close to the edgeが発売された。Close to the edgeは、前作及び前々作でブレイクしたイエスの名声そして力量を決定付けた極めつけの1枚であるとともに、大作志向の第1歩でもある。アルバムの構成は、LP当時A面1曲、B面2曲の3曲。メジャーどころの大作としては既にPink Floyd/Atom Heart Mother(1970.10)、King Crimson/Lisard(1970.12)、Pink Floyd/Echoes(1971.11)が存在し、Close to the edgeの直後にGenesis/Supper's Ready(1972.10)が発表されているように、当時は、シーン全体に大作志向が見られる。Lisardへのジョン・アンダーソンの参加が影響しているかどうかは分からないが、ついに、イエスも大作時代に突入したわけだ。 Close to the edgeは、ジョンアンダーソンの観念詩を題材にした4部構成の楽曲であり、数多い小曲を寄せ集めた組曲形式のもではなく交響曲的に非常によく練られた曲である。「i)着実な変革」では、小川のせせらぎと鳥のさえずりを導入部にしてスティーヴ・ハウのギターの見せ場がいきなり登場する。数回ジョン・アンダーソンのヴォイスでブレイクした後テーマの序奏が奏でられヴォーカル・パートに移る。「ii)全体保持」は着実な変革のメロディーを保持しながら、クリス・スクワイアのベースを前面に出した力強い演奏となる。ビル・ブラッフォードのドラムスとの相乗効果でリズムを強調した、曲中最もヘヴィーな演奏だ。「iii)盛衰」はトーンダウンし水滴のしたたり落ちる音などを効果的に使い、コーラスを交えてジョン・アンダーソンの澄み渡るヴォイスを浮き立たせるパート。後半リック・ウエイクマンのチャーチ・オルガンが高らかに鳴り響き「iv)人の四季」のアンサンブルに突入、リック・ウエイクマンのオルガン・ソロ・パートに移行する。テーマに沿ったソロながら、以降のソロ・アルバムで爆裂する独特のフィンガリングの片鱗を感じさせるものだ。つづくヴォーカル・パートはフィナーレに相応しい力強いもの。I get up,Iget downのリフレインの後、再び小川のせせらぎで幕を閉じる。・・・続く同志は、牧歌的なアコースティック・パートと、キーボードによる厚みのあるオーケストレーションとの対比が鮮やかな曲。ジョン・アンダーソンのヴォイスが透き通って響く。シベリアン・カートゥルは、アルバム中最もハイ・テンポでロック色の強い曲。これら3曲は、いずれもイエスの全期を通して、ライヴの定番となっている。
内ジャケットに描かれたロジャー・ディーンの絵画もいい。こわれものに描かれた世界の延長線上にある異空間だ。CDの見開きでは細い線が潰れ、紙質から微妙なトーンが味わえないので、ロジャー・ディーン氏のファンの方は是非LPの入手をお薦めする。アルバム危機の3曲は、この絵をぼんやりと眺めながら聴いてこそ、ジョン・アンダーソンの観念世界にトリップ出来るような気がする(・・・ちょっと絵への思い入れが強すぎか(^^ゞ)。Close to the edge発売後、9月15日のマイアミを皮切りに10月初旬まで第5回アメリカ・ツアーが行われ、更に、10月29日から11月20日まで第6回アメリカ・ツアーが行われている。ツアーとツアーの間にイエスはイギリスに戻り、ツアーで取り溜めたテープの選別等の作業を行っている。ライヴ・アルバムの発売が予定されていたからである。当時、発売予定のアルバムのタイトルは"Reflection of America 1972"とされていた。 12月15日、16日にイエスは、ロンドンのレインボウ・シアターで、17日にはマンチェスターのハードロックでライヴを行った。この3日間のライヴには、トニー・ケイ(org)率いるバジャーが前座を務めている。当時バジャーはデビュー直後でアルバムを1枚も発表していなかった。そこで、レインボウ・シアターでイエスの録音機材を使用してライヴ・レコーディングを行った。こうして発売されたのがワン・ライヴ(右写真)である。見たとおり(^^ゞロジャー・ディーンのジャケット。LP発売当時は見開くとアナグマが飛び出す、「飛び出す絵本」風ジャケットだった。CDの中にも飛び出す絵本キットがついている。 | |||||||
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− 1973 / Yessongs −
1973年1月16日、リック・ウエイクマンのソロ・アルバム、ヘンリー8世と6人の妻が発売された。 リック・ウエイクマンはイエス加入前に在籍していたストロウブスの頃からA&Mと契約しており、既に同レーベルでソロアルバムを録音していたのである。録音は1972年2月から10月であり、イエスから、ビル・ブラッフォード、アラン・ホワイト、クリス・スクワイア、スティーヴ・ハウが参加している。1973年は、日本のイエス・ファンにとって記念すべき、初の日本公演が行われた年である。当時、筆者は「ご幼少の砌(笑)」であり参拝しようもなかったが、データによると、次のような日程でライヴが行われたようだ。
Yessongs
・・・ところが、ミックスの最中に、良いパフォーマンスが多過ぎて2枚組みに切り捨てきれないという結論に達し、豪華装丁で3枚組発売することとなった。 この結果、4月27日、「Yessongs」は発売された。録音はすべて1972年のツアーのものであるが、危機の前半だけがアメリカではなくイギリスで録音されたライヴだということだ。また、1972年にはドラムスがビル・ブラッフォードからアラン・ホワイトに交代しているが、4曲目のペパチュアル・チェンジと10曲目のロングディスタンス・ランアラウンドだけがビル・ブラッフォードの演奏である。 Yessongsは、The Yes Album以降3枚のベストセラー・アルバムを集大成したライヴ・アルバムである。 予約注文だけでゴールド・ディスクを獲得したというから、当時のイエス人気は想像がつくだろう。内容は、概ね、スタジオ録音に忠実な内容であるが、発売直後に若干の批判も加えられたとおり、ラウンド・アバウトや同志など演奏に荒さの目立つ曲も存在する。しかし、逆に、スタジオ録音では9分前後であったペパチュアル・チェンジやユア・イズ・ノー・ディス・グレイスが14分台に拡張されている点、自身のソロ・アルバム、ヘンリー8世と6人の妻を再構築したリック・ウエイクマンのソロなど、見所も多い。スターシップ・トゥルーパーではエンディングにリック・ウエイクマンのソロが入って曲をビシッと締めているなどライヴらしく構成もよく練られていると思う。全盛期のイエスをコンパクトに体験するには、一押しの一枚だ。個人的には、ユア・イズ・ノー・ディスグレイスとスターシップ・トゥルーパーは、このアルバムがベスト・テイク、ヘンリー8世と6人の妻は冗長なオリジナルよりもこのアルバムのソロの方が聴き所が凝縮されていていてよいと思う。こわれものと危機の各曲のベストテイクは、オリジナルだろう。
さて、イエスソングズは映像も発売されている。下の写真は1991年発売のBMG盤LD。クレジットに寄ればロンドンのレインボウ・シアターでの録画である。1972年にレインボウ・シアターでライヴが行われたのは、12月15日と16日の2日間だけであるから、このいずれかのステージを録画したものだろう。 レインボウ・シアターのセットリストは、Opening(Firebird Suite), Siberian Khatru, Heart Of The Sunrise, I've Seen All Good People, Steve Howe Solo(Clap, Mood For A Day), Rick Wakeman Solo(Excerpts from The Six Wives of Henry VIII), And You And I, Close To The Edge, Roundabout, Yours Is No Disgrace, Starship Trooperである。これは、LP又はCDにほぼそのままの曲順で収録されているが、映像のほうはオール・グッド・ピープル以降の収録となっている。 Yessongs(LD/BMG盤)の収録曲目
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− 1973 / Tales from Topographic Oceans −
1973年当初の日本公演は3月8日から14日まで行われており、17日には既にオーストラリアで公演が行われているため、そして、日本公演の前日3月7日にイエスのメンバーとロジャーディーンの記者会見が行われているため、イエスのメンバーが東京に滞在していたのは、7日から10日あたりまでの数日だと思われる。 この間、東京のホテルに滞在中に、ジョン・アンダーソンがパラマハンサ・ヨガナンダ著「あるヨガ伝道師の自伝」を読んだことに端は発する。同自伝は、サンタナのキャラバンサライ制作の契機になったこととしても有名であるが、一体、どういう筋の人物かは不明。正当なその筋の人なのかもしれないが、所謂普通の人々にとっては怪しいグールーであったことに違いは無い。ジョン・アンダーソンは、日本〜オーストラリア〜アメリカのツアーの途中で、上記自伝から受けたインスピレーションと次作の構想をスティーヴ・ハウに話し、一気に曲を書き上げていったということだ。ジョージア州のサヴァンナにつく頃に殆ど仕上がっていたという。このアメリカツアーは第7回目のツアーであり、日程は4月4日サン・ディエゴから22日フロリダまでであるから、4月半ばには、既に楽曲が出来上がっていたということになる。ジョン・アンダーソンの言葉によれば魔術的体験だったそうである。 このツアーの後、暫くして、レコーディングが行われた。時期については必ずしも明確ではないが、アルバムには「duaring late summer and early autumn 1973」と記述されている。そして、1973年11月、スタジオ・レコーディングとしては第6作に当たる、Tales form topographic oceansが発売された。
「海洋地形学の物語」
危機以降、ジョン・アンダーソンの観念詩は難解を極め、本作ではそれが遂に行くところまで行ってしまった感がある。趣味・嗜好が全面に出てしまい、聴衆の受容は頭の隅からも消えうせ、逆に見れば、このアルバムは「やりたいことをやって見せてくれたもの」という位置付けになるのだろうと思う。 発表後の評論は賛否様々であったようであるが、個人的評価は極めて高い。冒頭の黎明混沌とした経を唱えるかのようなコーラスをリック・ウエイクマンのムーグがファンファーレを鳴り響かせるかのように断ち切りいきなり主題が提示される導入部において、既に「参りました」と言わざるを得ない。各曲それ自体に若干冗長な点があるのは否めないものの、作曲の技法が危機の4部構成を拡張し4楽章構成としたものであることは、Iget up,Iget downとThe Ancientの位置関係を見る間でもなく明らかである。また、神の啓示で提示された主題は展開されて随所で再現されるなど、交響楽的色彩も十分伝わってくる。古代文明におけるプリミティブなアンサンブルとハウのギターの対比も素晴らしい。しかし、何より20分台4曲による一代コンセプトアルバムをここまでの完成度で示してくれたことに感謝しなければならない。 アルバム発売後、イエスは、イギリス・ツアーを行う。「Yes in concert / Nationwide tour featuring Tales From Topographic Oceans」と題されたそのツアーは11月16日ロンドンに始まり12月10日のエジンバラのエンパイアまで行われている。この間のセットリストは、前半が、アルバム危機から、そして、後半、海洋地形学の物語を全曲披露するものであった。 | |||||||
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− 1974 / パトリック・モラーツの加入 − 1973年暮れにイギリスで行われたTales form topographic oceansの公演はその後、1974年2月7日フロリダに始まるアメリカ公演、そしてヨーロッパ公演と続き、1974年4月23日のローマ公演で終了した。
リック・ウエイクマンは、この合間、1974年1月18日に、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで、地底探検のライヴ・レコーディングを行っている。リック・ウエイクマンは当初200ページのブックレット付きで2枚組の豪華盤を予定していたが、不況の影響でA&Mから待ったがかかってしまったとのこと、最近、Returnモノなどの乱発が目立っているだけに、コンプリート版の地底探検でも発売してくれないだろうかと期待が募ってしまう。・・・地底探検は、メロディー・メーカーのアルバムチャートで6月15日1位に輝いた。そして、これを契機にリック・ウエイクマンはイエスを脱退した。脱退の原因の一翼は海洋地形学の物語の録音、そして、ツアーにおける不満が原因とも伝えられているし、スティーヴ・ハウと音楽的方向性について対立してしまったことが決定的な原因とも伝えられている。リック・ウエイクマンの後任として、最初にイエスが接触したのは、バンゲリスである。バンゲリスはギリシャ人であり、過去に、アフロディテス・チャイルド「666」で少しだけブレイクし、その後ソロ活動を行っていた人である。後に映画「炎のランナー」のサントラで一代ブレイクするが、この時期には、その兆しは見られない地味な存在だった。しかし、ヴァンゲリスのRCAの契約の問題等で加入は不成立となり、次に、スイスのパトリック・モラーツへ白羽の矢がたった。(・・・しかし、第3国人のキーボードが好きだねぇイエスは(笑))パトリック・モラーツは、当時、レフュジーのキーボード奏者であったが、同バンドを解散し、1974年8月加入の契約を行った。
第5期イエスの誕生である。メンバーは、Jon Anderson(vo),Chris Squire(b),Alan White(dr),Steve Howe(g),Patrick Moraz(key)である(右Relayer内ジャケの写真参照)。スタジオ録音、第7作目に当たる「リレイヤー」は、この第5期のメンバーにより、1974年の晩夏から秋にかけて録音され、11月に発売された。 ロジャー・ディーンのグレイを基調とした見開きジャケットに、イエスのアルバムでははじめて(だと思うのだけれど・・・)LP盤の中心部(何て名前だっけ(^^ゞ)にも絵が刷り込まれた。この絵の縁取りや、海洋地形学の中ジャケの写真の縁取り、そして、イエスソングズの表紙の縁取りを見ると、当時、ロジャー・ディーンはフランスの画家ミュッシャ(1861-1939)の影響を相当受けていたようである。
Relayer
リレイヤーは、危機と同様にA面1曲B面2曲の計3曲構成。冒頭の「錯乱の扉」は、戦争と平和がテーマの曲。ジョン・アンダーソンによる記号的言葉の羅列は相変わらずながら、前に比べりゃちょっとは分かりやすくなったかなぁというところ。パートごとの副題は付けられていないものの、前半が戦争で後にエディットされる「スーン」の部分が平和であろうことは感じ取れる。リック・ウエイクマンの優等生的奏法を受け継ぐことなく、大胆にもパトリック・モラーツはパーカッシヴに鍵盤を操る。錯乱の扉中盤以降の戦闘シーンを想起させる怒涛のバトル・アンサンブルは彼ならではのものだ。そして、破壊的に繰り広げられた演奏から一気に暗雲が消え去り静寂が訪れた後に、ジョン・アンダーソンにより歌われるスーンの美しいこと美しいこと。続く、サウンド・チェイサーは第5期イエスの真骨頂とも言えるサウンドを呈している。一触即発の究極のテンションが封じ込められた楽曲(←何のことだか分かんないけど、こういう雰囲気なんですぅぅ。。..)。イエスの楽曲中、ここまでテンションが高く、瞬発力のある曲は他に見出しえない。最後のトゥ・ビー・オーヴァーは再び平和を感じさせる曲。キーボードとシタールによる静寂の導入部から流れるようなオルガンのソロまで実に美しく構成されている。 イエスのベスト・アルバム投票なんてのをやると、必ずコアな人たちはこのアルバムを選んでしまうほど、不思議な訴求力を持った、そんなアルバムなのであります。 リレイヤー発売後、11月8日から12月17日まで、第11回アメリカ・ツアーが行われた。このツアーには、王宮室内楽団風のサウンドを聴かせるグリフォンが前座として同行した。 − 1975 −
イエスは、1975年4月から5月にかけて再びグリフォンを伴いイギリス・ツアーを行っているが、同年5月10日(土)にグリフォン、エース、シールズ&クロフツを前座に、ロンドンのクイーンズ・パーク・レンジャーで行われたライブ映像(DVD等)が発売されている。
ライヴは、夕刻、まだ薄明るい屋外の会場の全景と、そこに群がる聴衆のカットから始まる。白い幕で覆われて機材の状況は見えない。ストラヴィンスキーの火の鳥が流れ次第にステージがアップになり、やがてフィナーレのフレーズ直前に幕が開き、メンバーが一斉に登場する。アラン・ホワイトとジョン・アンダーソンのパーカッションを加えたエンディングと同時にパトリック・モラーツのオルガンがワン・フレーズ。突然サウンド・チェイサーの怒涛のアンサンブルに突入する。リレイヤー各曲の再現ぶりは当然の聴きどころながら、Vol.1の5〜6までがアコースティックのコーナーになっているところもポイントの一つ・・・というか、イエス・ファンなら聴かない或いは見ないではいられない素晴らしい内容なのだ。ジョン・アンダーソンのギターのストロークにスティーヴ・ハウのマンドリンとクリス・スクワイアのリッケンバッカーのアコースティック・ギターが加わるオールグッド・ピープル。ユア・ムーヴが終わるや否やいつのまにかクラシック・ギターに持ち替えていたスティーヴ・ハウのムード・フォー・ア・デイが始まる。続くロング・ディスタンス・ラン・アラウンドもアコースティック・バージョン。終盤、パトリック・モラーツに引き継がれる形でピアノに入る。クラシックの練習曲のような高速フレーズからロックっぽいシンコペーションを多用して展開しジャズ・フレイヴァーさえ漂わせる只者ではないソロ。これも終わるや否やスティーヴ・ハウのクラップに引き継がれる。いやぁ、憎いねぇ〜この演出!さて、Vol.2の聴き所はやはりハイライトの儀式かと思われる。中盤のプリミティヴな呪術的風景。ここでは、アラン・ホワイトとジョン・アンダーソンのほかクリス・スクワイアも加わり魑魅魍魎蠢くパーカッションのバトルが展開される。儀式で一応ライヴはおしまい。・・・というかアンコールを予定してオキマリのようにメンバーが引き上げ、スポットライトが聴衆を舐め回し・・・と、このように扇動されたアンコールの嵐の中、再びメンバーが登場、アラン・ホワイトのシンバルにより刻まれる8ビートのカウントでラウンドアバウトが始まる。続くスウィート・ドリームスはピーター・バンクスの頃のナンバー。これが、パトリック・モラーツの時期で聴けるとは・・・感謝感激であります!流石に、装飾音部がハウ&モラーツなので、バンクス&ケイは足元にも及ばない素晴らしいノリ。スウィート・ドリームスはこんなにいい曲だったのかと再認識させられてしまった次第。終曲のユア・イズ・ノー・ディスグレイス。この曲ほど、ライヴで表情を変えて聴くたびに新鮮さを醸し出す曲はないのではないかと思う。きっと、アドリブのノリが良い曲なのだろう。今回は、中間部以降のハウさんとモラーツさんのバトルがやはり聴きどころ。モラーツさんのブルース・フィーリングもなかなかのもの。 このように、1曲たりとも捨て曲はない、鬼気迫る150分間。ライヴ1975は、全盛期のイエスの迫力をまざまざと見せつけられる素晴らしいライヴ映像なのでありました・・・パチパチパチ(^O^)。最初は、モラーツがウエイクマンをどう弾きこなすか・・・なんて所に興味があったんだけれども、見てるうちに、そんなことはどうでもよくなってくるから、入れ込みよう又は入れこまされようは相当のもの。生じゃなくってPCテレビだから、音圧とか匂いとかが無いわけだけど、・・・ただただ、イエスは流石だなぁと思ってしまう。 さて、録音の状態。こちらの方は、Vol.1の1〜3辺りの録音の状態が今ひとつよくない。各楽器のボリューム・バランスがちょっと頂けないのだ。ハウさんのソロの音よりジョンのリズムが出ていたりとか・・・。なので、最初、中の上くらいのブート音質かとも思ったが後半、特にVol.2に入ってからは完全に持ち直す。逆に、昨今の編集され尽くしたライヴ音源と比べてみると、ライヴがすっぽりと映像化されている点、例えばジョンが歌いながら拍手をするその音、クリスがソロ・フレーズの組立てに口ずさむハミングの一つ一つ等々がきちんと拾われていて、臨場感が極めて高い。 ・・・このように、ライヴ1975はふらさん一押しの映像作品なのであります。DVD等の設備がない皆さんも、この際、マシンを導入して、一緒にタイムスリップし、永遠のライヴに酔いしれようじゃありませんか! | |||||||
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− 1975〜1976 / Yesterdays〜ソロアルバム − イエスは、1975年4月から5月にかけてグリフォンを伴ったイギリス・ツアーを行った後、休息期に入る。同年6,7月と1976年の7,8月にアメリカ・ツアー、1975年8月23日にナショナル・ジャズ・ブルース&ロック・フェスティバルに出演した程度でその他表立った活動を行っていない。 1975年3月14日、イエスタデイズが発売された。
1975 Yesterdays
Steve Howe / Beginnings(1,2)
1975年10月31日、スティーヴ・ハウのビギニングス、11月7日、クリス・スクワイアのフィッシュ、1976年2月27日にアラン・ホワイトのラムシャックルドが相次いで発売された。 これら3名はイエスと同じアトランティックからのリリースであったが、続いて、3月19日、フェーマス・カリスマ・レーベルからパトリック・モラーズのiが発売されている。ソロアーチストとしての契約はカリスマにあったのである。 リレイヤーにもその旨のクレジットは入っている。そして最後に、5月7日、アトランティックからジョン・アンダーソンのサンヒーローのオリアスが発売された。 この時期に発売されたメンバー個々のしかも初のソロ・アルバムは、作品の仕上がり具合としては、どれをとっても決して面白いものではないが、イエスのサウンドを分析する意味では非常に重要な役割を担った作品であるといえるだろう。 すなわち、早い話がスティーヴ・ハウはギター馬鹿であって歌が下手で、クリス・スクワイアは稚拙な或いはエゴイスティックなミキシング・バランスによってバンドの音を崩壊させるがごとく歪められた1stや2ndの録音のように、ベースを、実は前面に出したくてしょうがない、アラン・ホワイトは普通のタイコ叩きであって、パトリック・モラーツは第3国の小賢しいが地味な鍵盤弾き、ジョン・アンダーソンは完全に頭を打っている。・・・という具合である。 ソロに思い入れを求めたい人はそれなりの頁を探せばよろしい。すなわち、これらソロアルバムは、5人のアーチストのエゴの均衡の元に微妙なバランスに支えられて見事なイエスサウンドが具現化していることを如実に示しているのである。イエス・サウンドは、実にfragileな音だったのである。 − 1976〜1977第 / リック・ウエイクマンの復帰〜究極 − 1976年11月、パトリック・モラーツはソロ活動に専念するためとの理由でイエスを脱退し、リック・ウエイクマンが再加入した。パトリック・モラーツのソロ・アルバム「i」が各誌で絶賛されソロ・アーチストとしての見通しが立ったことなどが理由に挙げられているが、真相は明らかではない。しかしながら、経緯は次のとおりである。1976年暮れ頃から、スイス、モントルーのマウンテン・スタジオで新作(スタジオ・オリジナル・レコーディングで数えれば第8作)のレコーディングのリハーサルをはじめた。スイスがレコーディングの場所に選ばれた理由は、パトリック・モラーツの故郷であるという点、イエスの各メンバーの気分を一新するためなどが挙げられている。しかし、リハーサルの途中で、突然パトリック・モラーツが脱退を表明したのである。その代役としてリック・ウエイクマンが選ばれたが、その理由はマネージャーが共通(ブライアン・レーン)であるということであった模様だ。リック・ウエイクマンは着々とA&Mからソロ・アルバムをリリースし、この頃には既にノー・アースリー・コネクション(1976年4月)を発表している。そして、7月、ソロ活動をサポートしていたイングリッシュ・ロック・アンサンブルを解散。しかし、イエス再加入後も並行してソロ活動は続けている。・・・このようにして、イエスは第6期を迎えた。 確認のため第6期イエスのメンバーを書き出すと次のとおりである。Jon Anderson(vo),Chris Squire(b),Alan White(dr),Steve Howe(g),Rick Wakeman(key)・・・写真は第4期イエスの写真を参照のこと。 イエスの新作は3月ころに完成したが、アルバムのアート・ワークやプレスの質(当時はヴィニールだったから)の問題等々により、発売は大幅に遅れた。第6期イエスのカヴァー・アートからはロジャー・ディーンが外された。理由は定かではないものの、当時、ブレイクしていたアート集団ヒプノシスのアート・ワークが採用されたのである。「Going for the one」と題された新作が発売されたのは、1977年7月15日であった。
歌詞が肯定的で直接的になったという評も当時あったが、未だに意味不明で頭ぶっ飛び状態であることに変わりは無いようだ。記号的観念的羅列である。 3面見開きジャケットというのもなかなか凝っているがヒプノシスのアートワークは無機質過ぎてイエスのサウンドには似合わない・・・と思う。・・・思いませんか? さて、私は、イエスのシングルを追いかけたりするほどには、というかそういう方向性では入れ込んでないのだけれど、1977年の暮れに、B面にアウエイクンを編集し「アウエイクン・パート1」と題したシングル盤が発売されたということだ。これは、ちょっと、どんなものか聴いてみたい気がする。 − 1978 / Tormato − 1978年2月、イエスは、次作(スタジオ・オリジナル・レコーディング通算第9作)のレコーディングをはじめた。場所は、ロンドンのアドヴィジョン・スタジオである。9作目のタイトルは、当初「Yes Tor」であった。Torとは頂上の尖った岩山のこと。イギリスに実在する花崗岩の岩山であるらしい。ジャケットの背景に写った岩肌がYes Torの頂上なのかどうかは定かではないが、下写真最右の歌詞カード兼レコード・ケースに背景として印刷されているのは紛れも無くYes Tor付近の地図である。写真はUS盤。TorからTormatoへの変化は、岩山の形相がトマトを押しつぶしたようであったことから両者を合体して造語したものと語り継がれているが、その真相は定かではない。学生時代、Tomatoの正しい綴りはTormatoだと思い違えていた時期があったから罪なアルバムだ(馬鹿)。・・・かくしてトーマトは、1978年9月8日に発売された。初版(だったと思うのだけれど)には、濃目の黄緑色でイエスのロゴが描かれたメタルシール(といっても最近のみたいにペナペナのじゃないよ)がついていてお得だった。喜びのあまり、当時バイクに貼って走っていたので手元にはもうないんだけどね(^^ゞ
しかし、演奏時間は短くとも、それぞれの楽曲を追っていくと、ヴォーカルとバッキングというポップスの方法論ではなく、インストルメンタル・パートを含みトータライズされた音世界への拘りの数々が散りばめられていることが良く分かる。 − 1979 / Live in Philadelphia − トーマトのツアーは、1978年8月28日ロチェスターのメモリアル・オウディトリアムを皮切りにから1979年6月30日のマイアミまで行われている。これら公演のうち1979年6月21日、フィラデルフィア・スペクトラムの公演が公式音源として発売されている。ライヴ・イン・フィラデルフィア1979である。
ライヴ・イン・フィラデルフィア1979の音源はTV放送用なので、所々映像が途切れている個所があり、しかも曲順がシャッフルされている。見事にオフィシャル・ブート的味わいの濃い一枚である。しかも、アルバムには古代文明が抜粋であるとは一言も書かれていなかったので、買う前に無茶苦茶期待してしまった。まぁ、抜粋なりに味わいはあったのだけれど。このあたりはちゃんと書いてくれなきゃね。コロンビアさん(-_-メ)
聴きどころは、天国のサーカスとアラン・ホワイトのドラム・ソロ、そして、ジョン・アンダーソンがジェニファーの16歳の誕生日に捧げて弾き語りするリーブズ・オブ・グリーン。リーブズ・オブ・グリーンは古代文明からのボーカル・パートの抜粋であり、ライヴのセット・リストには、しばしば登場するものの、アルバムに収録されているのは、これだけである。そして、スターシップ・トゥルーパー後半部におけるリック・ウエイクマンとスティーヴ・ハウの長いインプロビゼーションも聴き所であり且つ見所だろう。アドリブ自体は若干冗長で精彩を欠くものの、バカでかいショルダー・キーボードを弾くリック・ウエイクマンの姿を拝むことが出来るのだ。所狭しというよりは、狭すぎでさほど動き回れない円形ステージをのしのし動くリックの勇姿(^^ゞ・・・というより、鍵盤ファンはキーボードに目が行っちゃったりして。キーボードとギターのネック部分が合体したキーターという名前の音源内臓巨大マシンであったそうだ。後に登場するYamaha KX-5あたりと形はまぁ近いのだけれど、大きさがねぇ。ちょっと日本人には持てないかもというくらい重量級。MIDI以前のショルダー・キーボードは、1980年のMoog Liberaitonが最初かと思っていたら、前の年に既に使ってる映像があったんですね。一体何処のマシンなんでしょうね。・・・とまぁ、数少ないイエスの公式映像。兎に角、どこまでも貴重なのであります。 |